Interview

明日やろうは

バカ野郎だ!!
 

Entry.01

栗原 正明

Masaaki Kurihara

変わり続ける男エース栗原正明、変わらない男エース栗原正明

山梨で何をすればいいのだろう。山梨で休みの日にすることは走ることだった。
今までのように練習日誌なんて付けずに、走ることだけを楽しむ。走って、走って、いいところだなあと思った。

エース栗原正明は回想する。
山梨という土地は、たまたま赴いた場所でしかない。スポーツに、トライアスロンに、デュアスロンに本気で選手として向き合うことができなくなって、教員として山梨にいた。大学院を卒業すると同時に、スポーツ選手となるべきか、普通の就職をするべきか、選択を迫られたとき、スポーツ選手にはなれなかった。

栗原正明と陸上競技

子供の頃の栗原正明は、とにかくスポーツが好きだった。
親の影響もあって、野球、水泳、器械体操とさまざまな競技に触れ合った。目立ちたがり屋だったから、小さなことでも中心にいないと気が済まなかった。
陸上との出会いは、6年生のとき。学校の先生に誘われてなんとなく出場したマラソン大会だ。大規模な大会ではないが、違う小学校の見慣れない同級生に囲まれて3位という結果を残す。どこかのランニングクラブで鍛えたであろう、ランシャツランパンの少年たちを学校の体操着で打ち負かした。その結果に喜んでくれる人がいて目立つことができた。
表彰台をきっかけに、陸上なら結果を出せると気がつき、中学ではすぐに陸上部に入った。1500mは区内で敵なしの4分20秒台。私学大会でも敵はいなく、誰にも負ける気がしなかった。それでも高校に進むと伸び悩んでしまう。私学大会でも、強豪私立の選手との差が広がる一方だった。
そして、逃げてしまった。
本当なら、やればやるほど伸びるはずなのに。
逃げてしまった。言い訳はそこら中に転がっていた。高校生は言い訳をして生きている。そうやって悶々と生活する中で、なんとか踏ん張りたいと思って、高校の終わりに中3から更新できなかった自己ベストを塗り替えて、陸上にはピリオドを打った。

栗原正明はエースと名乗った

陸上競技にピリオドを打つと、水泳経験、陸上経験、そして楽観的になんとかなると感じたバイクの3つをもってトライアスロンを始めた。大学のチームでの自己紹介で「エース」と名乗った。目立ちたがり屋なのは、このときにも変わらない。それが競技とは別のところでも目立っていたかった。今思うとそれを馬鹿にしていた人もいただろう。「これがうちのエースだから」と、紹介をしてくれるときには笑いがつきものだった。実際に1年目からトライアスロンで競技成績を残すことはできず、全国大会の出場権利も獲得できなかった。一体、なんのエースなのかも分からない。その称号の価値はどれほどだったのだろうか。

冬になるとデュアスロンが始まる。トライアスロンをしなければデュアスロンなんて知らなかった。それは、小学校のときに先生がマラソン大会に誘ってくれたように、たまたま出会えただけでしかない。だけど、そのたまたまが同じ結果を呼び寄せる。日本学生デュアスロン選手権のオープンの部での優勝。本当に速い選手が出ているわけではないけれど、新人戦のような扱いの大会で優勝したことは、自信を持つきっかけになった。デュアスロンは通用する。目立つことができる。もう一度そう思った。

トライアスロンには、そこまで熱を入れていたわけではなかった。学生選手権予選大会では、ゼッケンベルトを付け忘れた。コースアウトをして自分の陣地に取りに戻るような準備のなさが現れた。全国大会では、東京から香川まで自転車で移動して出場したこともあった。そんな選手が真面目に取り組んでいたなんて言うことはできない。