Interview

諦めない。
発展途上
トライアスリート

Entry.03

肥後 巧

Takumi Higo

諦めない。
肥後巧はそう答えた。振り返ってみればトライアスロンの舞台で一度も勝利を掴んだことがない。何かを掴みたくてもがくのは、苦しいことだ。溺れることなんてないけど、溺れるとしたらこんな感じなのだろうか。

トライアスロンを始める前だって、理想と現実の境界線が波打つように荒れていて、そこに挑もうとすると何度も跳ね除けられた。
波を乗り越えようとしても、呼吸のタイミングで覆いかぶさってくる。前に進まない。狭い場所に閉じ込められそうになる。

憧れは才能の壁の先に

幼い頃の記憶。水泳を始めたばかりの頃、
どこがいいなんて、覚えていないけれど、
身体の大きな選手コースの人たちがカッコよく見えた。自分もああなりたいと、自分よりも大きな人たちの世界に憧れた。

親の転勤で、転々とする生活だったが、どこにいても憧れるような選手がいた。
自分はどこに行っても才能を認められるような選手……
というわけではなく、選手コースにも入れないようなレベルでしかなかった。

初めて選手コースに上がることができたのは名古屋だった。標準タイムを切ると、周りで練習していたのはインターハイなどの全国の舞台で活躍する選手。全国の舞台に、広い世界で戦ってみたいと思い始めるようになった。しかし、名古屋での選手コースも半年で離れてしまうことになる。

そして神奈川にやってきた。
流れ着いたのは、泳ぎ渡ったのは、
サギヌマスイミングだった。
それからは拠点が変わることがなく今に至る。

水泳時代の自分は見る影もないような選手だった。中学生の時には全国どころか関東大会に出れるかどうか、リレーで全国に連れて行ってもらうような存在だった。
家族からも水泳に対する期待はなくて、自分でも才能がないことは分かっていて、周りにはずっとずっと速い選手がいて、それなのに全国大会への憧れは捨てられなかった。
どうしても水泳で勝てるとは思えなかったのに。

沸騰するようなプールでの三年間

高校三年間はサギヌマスイミングを休会した。川崎市立橘高校に一般受験で進学して、水泳部に入部した。そこは専門のコーチに教えてもらうようなスイミングクラブとは違って、生徒がやりたいことを練習したいことを尊重してくれる部活だった。自分たち次第で良くも悪くもすることができる。
新しい水泳との向き合い方を考え、泳ぎ続ける日々が続いた。泳ぐだけじゃない、大会を運営したりボランティアをしたり、自分の知らない水泳の世界が溢れていることを知った。

その頃、同じ高校で一学年上の浅海先輩がトライアスロン、デュアスロンで全国で活躍する選手だと知っていたが、興味を持つのはまだ先の話である。なんかすごい人がいるもんだと無関係に思っていた。

水泳はその高校三年間できっぱりと辞めることができた。辞めることは決して後ろめたいことじゃなくて、全国大会に出場する、インターハイに出場するという目標を成し遂げることができたからだった。しかし、自分の実力に見切りをつけたとも言える。
高校三年生の熱い夏。リレーで全国大会に出場した。プールの水が沸騰するように熱い夏だった。