Interview

デュアスリートは

二度走る
 

Entry.06

深浦 祐哉

Yuuya Fukaura

レースナンバーは強さの証。
1番をつけるのは、1番強い選手。
いつからだろうか。デュアスロンの舞台で勝つことに自信を持つようになったのは。

「レースナンバー1、『皇帝』深浦祐哉」名前を呼ばれてスタートラインに立つ。
『皇帝』なんて呼ばれるようになったのもいつからだろうか。元来、自分を大きく見せるような人間ではないはずなのに、それが嬉しく光栄にも思う。
実際に、その名に恥じない自信もある。デュアスロンの舞台で戦い続けて、勝ち続けている。負けるイメージは持っていない。

スタート同時に若手選手が勢いよく飛び出した。陸上出身の新顔がアスファルトの上を走っていく。何度も走って固めた道を、彼ら共に走り出す。

1stランー新天地

大学時代には早稲田大学のトライアスロンチーム『ノースウエスト』に所属し、卒業してからは、アルバイトをしながら競技を続けた。なんとなく競技を続けたい中で、オリンピックを目指すには泳力が足りないと痛感する。消去法的にトライアスロンを続けるにはロングディスタンスを選ぼうかという、中途半端な状態だったと内省する。
それはまるで無人島で自給自足の生活をするようなものだ。
無人島では、自ら道を作らなくていけなくて、闇雲に走った。鬱蒼と茂る草木を踏み潰していき、道を作った。

元々は陸上出身の選手だから、ランニングの練習は中途半端でも周りと比較して走れていた。その分だけスイムとバイクを練習するようにしていたが、また速く走りたいという気持ちが気づかないうちに芽生えていく。


そんな時、闇雲な無人島の開拓に人力を超えるものが現れた。ブルドーザーが圧倒的な破壊力をもってあっという間に道を作りあげたのだ。
2005年の12月、深浦祐哉は26歳だった。東京中のランナーが集まる織田フィールドには、見知った顔の選手も走っている。
そこにいたのが、一つ年下の平松弘道選手。学習院大学陸上部の中に混ざって練習している姿を見かけ、どんな練習をしているか気になって勝手にタイムを計測した。なるほど、いい練習をしていると気になった。
練習後に声をかけると、学生の中に混じることで質の高い練習ができていると教えてくれた。思わず混ぜてほしいと伝え、学習院大学陸上部での練習が始まる。
当時、学生として在籍していたのが、現在市民ランナーながら世界で活躍する川内優輝選手。トライアスリートにはない能力を持った選手に食らいつくような練習はなかなかできるものではなかった。
そんな環境の変化が生まれると、急に自分が速くなるのを感じた。
それから、およそ2ヶ月ほど後のカーフマン南関東ステージでは、勝てるなんて思ってもいなかった。
速くなっていることは実感しながらも、当時雲の上のような存在だった高橋泰夫選手、森正選手、菊地次郎選手、山本良介選手、マイケルトリーズ選手、などのメンバーの中で頂点に立つなんて思わなかった。

そして、実感とは裏腹に結果は優勝。
1ヶ月後の修善寺での日本選手権でも優勝した。
そこで世界選手権の代表にまで登りつめた。

闇雲に走って、道をかき分けていた頃には思い描きもしなかった無人島の頂上にたどり着いたのだ。
そこはもう無人島ではない。
そこから見える景色が深浦祐哉を変えた。
闇雲に切り開いていた道は、
デュアスロン選手として走り出すための道になっていた。