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ムコーダマガジン

No.10

届かないから努力するという当たり前の話



【 届かないから努力するという当たり前の話 】


「トライアスロンのレースで完走する」という言葉には、「制限時間以内に」という意味が内包されている。
いくつもの関門を乗り越えて、時計の針を気にしながら走る。
ギリギリの時間になるほど、あたりは暗くなって時計のディスプレイも見えにくくなってくる。
それでも、制限時間内に走り切れたものが、フィニッシャー。完走したと胸を張って言い切ることができる。
そこにある達成感は、なぜ生まれるのだろう。

たとえば、一年かけての合算距離がアイアンマンディスタンスと等しくなりました、なんてことに喜べるとは思わない。
すでに何度もレースに完走している人が、ただ10キロを走りきったことに感動するとは思えない。

やっぱり、届かないところに手が届いた、という実感こそが達成感なのだろう。
成し遂げたことが何であるにせよ、その人にとって、それまでは手に届かないものであったはず。
こう考えるまでに大した苦労はしていない。だから、自分の中でこの結論を出すことにも達成感は生まれなかった。

トライアスロンをおもしろいと思って逃れられない人は、手が届きそうで届かないところを目指している。
それを何回も何回も続けている。いくつかの達成を重ねながらいつのまにかすっかり高いところに来ていた。という印象がある。
だからこそ、タイムが速い人、大会で上位の人ほど、自分なんてまだまだだと口にする。
きっと、そこで言うところの、「まだまだ上がある」の上とは青天井で誰もたどり着くことはない。
人類が月面着陸に成功しても、広がり続けている宇宙の端にはたどり着けないようなもの。まだ手の届かない人には雲の上の存在だけど、その上もずっと続いている。
もちろん、これはトライアスロンだけでなく、スポーツだけでなく、他にも目的をもった行動に通じることであるのだろう。
ただ、トライアスロンで体感するそれには独特のスパイスが加わっている。
普段は絶対に使わないような時間をかけて、レースじゃないと行かないような場所にわざわざ出向いて、そこでようやく練習の成果を発揮にしてたどり着いたゴール。
その日の疲労が、これまでの努力の量のように思えてきて異様なまでに重くのしかかる。
こんなことをしていたんだなあと思ってゴールをするとその感動を忘れることはできない。

ゴールの写真


厄介なことに同じことをしても同じ感動を覚えることは出来ない。
小学一年生のテストで100点を取ることの嬉しさは、いつになっても同じではないようなもの。
仮に同じレースで同様の感動が得られるとしたら、また別の苦労が存在しているはずだ。
トライアスロンの魅力は、同じような感動を手にするために次のゴールを提示してくれるところにあるのではないか。
そこで終わりなら、新しい挑戦に踏み出すがトライアスロンに終わりはない。
自己ベストの更新でもいい、順位を求めてもいい、距離を伸ばしてもいい、連続出場記録でもいい。
それを決めるのは誰でもない自分だ。
アプローチの方法も数知れず存在する。種目別にレベルを上げてもいい、複合した時のレベルを上げてもいい、練習のスケジュールを見直してもいい、道具を一新してもいい。
ゴールにたどり着くための手段は、スタイルと呼んでいいのかもしれない。
トライアスロンのスタイルを磨くことが、達成感のある人生を実現していく方法のように思えてならないのである。


表彰の写真



ムコーダ